夢の達成、消されないためには?

フリーライターを目指して修行中

性格など

誰でもあるような思考回路というものが、私には欠けているのだろうかと思わされることも多い。寝たまま果報を待つというのでは、いつまで経っても、何事も達成できないと聞いたときは、なるほどと思った。私としては、寝ているだけでも良い知らせが来てくれることもあるのではないのかとも考えていたふしがある。確かに、手紙を書いて誰かと連絡を取り合うにしても、まとまった文章を書きつらねていくにしても、多少なりとも時間はかかるし、寝ているだけでは何も進展は無い。完成されていて、しかも、本屋に多くの人の手を介して発売にこぎつけている本を読んでも、それを完成されるまでの紆余曲折は即座には見えない。私はもっと簡単に作家先生になれるものとも思っていたのに、長い時間をかけて学んだのは、そんなに簡単じゃないよと言う、当たり前のことだった。ある漫画家は、億円単位で収入があると言っているのだが、本当なのだろうかと私は少しうたがっていた。でも、私は毎週毎週の締め切りが10本はあるという情報を得て、それから少し計算してみた。すると、そんなに多くのページ数を描きこなせるとなると、やはり億円単位の収入があるというのは、あながちウソでもないことが判明したのである。1本が5ページから10ページの漫画作品で、一週間に100ページなら、月に400ページで、年間では5000ページほどになるのだから、なるほど人気作家の原稿料金ならば、年収では億円単位ともなるのかもしれない。他人ながら、多くの人がそのひとの漫画を好きで、そしてまたその人気漫画家もいつまでたっても原稿を制作し続けられるのだから、すごいと思う。自分も、そうなりたいという思いをいだいている人も多いかもしれない。それでも、私はその影響力というものが、受ける人にどういう結果を生み出させているかも気にしなくてはいけないのではないかとも思うのである。少なくとも、その作家の漫画を読むための時間は多大なものがあると思う。そんなに作品を量産できるものなのかとも、少し疑念もわくのであるが、結局、才能があるということなのだろう。人生をすべて漫画に投入しているのであろう。漫画作品というのは、起承転結などの作り方もあって、その型にもとづいて進展していくものだとは思うのだが。絵というかイラストにも作家独自の作風が表現されていて、それが好まれるという事でもあるのだろう。内容も、面白いということももちろん求められる。そういう意味では、漫画作品として、パーフェクトでなければ、売れないのかもしれない。私としては、そのようにあとからあとから出てくる新人作家に負けることもなく、よく続けられるなという思いもあり、新作を楽しみにする大勢のファンに支えられているのだろうなとも思う。途中でざせつするということは、なかったのだろうか? 私としてはミニ漫画を自作してみたりもするが、それでも、それが売れていくというのは、どういう過程をたどればいいのだろうか? そこでやはり結論めいたことを言うとすると、中央・東京都に行って売り込みをしていくのが最短なのだろうなということである。私は、東京からはるか離れた田舎に住んでいるし、それだけでなく、「売り込み」という話を持ち出すこともなく、今にいたっているのだから。売れるはずの無い要素を、いくつも持っているが、売れるという要素は、何もない。今後の自分の人生のなかで、何かを説明したり、ひとに伝えるべきことがうまく伝えられるようにという目的もあるのではあるが。これまでには、私はそのようなことをしてきたのかというと、いくらかはして来ているのである。小説では、今のようにインターネットの世界が発達していなかった時代に、私はまだまだ若かったのであるが、新聞の日曜日の投稿小説欄で自作の短編小説が採用されて、とても良い経験を出来たという記憶がある。それでも、ただそれだけのことでもあり、毎週の採用される中でのただ一作であるのだから、たいしたことないと言われれば、それまでである。作品の内容も、自分の思い付きであって、ある若者が突然特殊能力というか「書いたことが現実となっていく」という能力を活用して世界を変えたいというすじの小説であった。どこかで聞いたような内容だったのだが、採用してもらえたということは、面白いし掲載するだけの意味が見いだせる作品だと思われたのであろう。ペンネームも、「南」がどうとかと言った、変なペンネームを付けてしまい、本名が良かったのかなという後悔もした。なんだか、自分はどうだったかという点を振り返ってみると、「動き」は私にも確かにあるのではあるが、あるにはあるが実りが実感できていないというところかなと思う。もっと努力して、前面に出るという性格だったら、何か果実を得られていたかもしれないのだが。小学校の卒業間際のお別れ会の時のことをよく思い出す。私はただの観客側の人間で、私と遊んだりしていたある少年は出し物に積極的で人前でもダンスを披露したりと楽しんでいたのが印象深い。もう12歳くらいの時には、性格によって分岐点は来ているのかなとも思う。私としては、はやくに良い編集者に出会ったり、海外にでも出ていって作風をみがいたりして、何かしら突破口を開かねばならないのではないかとも思う。それには、引き換えにというか、見せ場も何もないものであるが、文章を書き続けて、誰かに作品を認めてもらえるように、努力しないといけないのではないかなとも思う。とある言い方では、「売り文」とも言うようで、売り出しにかかるほどの文章というのが書けないと、やはりだめなのかもしれない。結局、ここで私が思い出すのは、友人が言った一言、「なんでやめるのか?」という言葉である。私は、もう長らく公開用の文章というのは書いて来ていない。もうあきらめてしまおうという気持ちが強くなってきていたのもあるし、自分のパソコンの中だけでは日記のようなものは書いて来ていた。誰にも認められることもなく、それでも、何も本当のところは変わっていないのではなくて、日記を書くだけで気は晴れていた。まだまだできることはあるはずだということに気付かされるこのごろである。もしも、私がこうして書く文章にファンがついてくれて、私の助けをしてもいいよという人が現れたら、練習もかねて出版に向けて本一冊の分量の文章を書いていこうとも思う。そんなひとは、現れないかもしれない。私は自分が書いた小説が売れて、すぐにも人に認められるものとも勝手に信じていて、そして進んで行く事態を見て、ああ自分の思っていた通りになんてならないのだなと気づかされた。気づいたから、もうやめようと思ってしまったのか、単にパソコンの調子がおかしいのと他の事で忙しいのと、持病でなってしまった「そけいヘルニア」のただただ痛いという苦しみにさいなまされていたのとで、と考えてみたら、いろいろと執筆活動をさまたげる出来事が自分の身に降りかかって来ていたのである。私は、ある書物を読み、南へゆけとも、あるひとからのお告げで聞かされていた。そして、冗談は通用しないとも言われている。南へゆけという言葉が、今思えば、私が初めて新聞に投稿して採用されたときに自分の小説のペンネームに使っていた「南」を意味しているのかなとも思える。そこへゆけと言われても、私はどうしたらよいのだろうか? あの小説作品では、主人公が新聞記事を好き勝手に書きかえていったことが、すべて実現していくという、いま思えば、ものすごく現実には無理なことを描いているものだった。わたし自身に、そんな力が備わっていたとしたら、どうだろう。やはり、好き勝手に、物事に介入して変えてゆこうという思いが強く出た行動をとるかもしれない。私の最初の作品がそういう流れの話だったのは、自分で作れたのがそういう物語だったというだけのことである。若者が単純な思考回路で書いてしまったのだというか、何かが大きく変わろうとしていた若者である自分の未来と重ねていたのかもしれない。事態は、好転し、ハッピーエンドになって、終わって続いていくという物語。当時の私はその手の流れの話が好きだったのだろうなと思う。特に内容を誰からも批判もされなかったし、嫌な思いもしなかった。でも、作品の売り込みなどを出版社にしていくともなれば、冷ややかな反応というのもあるのかもしれない。私はダメ元でもいいからと何かをすべきだろうか? それとも、地道な執筆活動を続けて途中であきらめないで、成果がでるのを待つべきだろうか? はたまた、編集者自身を自腹で雇ってみて、私的に利用して作品を改善点の指摘をしてもらい、出版していくべきか? さまざまな疑問に答えるサイトを利用してみたら、たぶん、そんなふうな物書きとなっても、だめだとか無理難題だとか賞を目指してみたらとかグループに入会したらとか、そのような答えでうまくかわされるのがオチかもしれない。駄文を買ってくれる人なんていない。そういうことに気づかされるかもしれない。機転を利かせてみたり、人生を器用に生きてみたり。そういう人たちは、星のかずほど世の中にはいるのだろうけれど。詩文の場合は、昔は学問をしている人たちの発表の場があって、そこに出ていって作品を評価してもらってみたり、仲間内で相互に助けあって出版してみたりしていたらしい。いま有名になっているある人は、作品を手当たり次第にひとに売り込んで来ていたらしく、それがその人が当たりが出たような状態になっていった理由なのかもしれない。先人の知恵には学ぶことは多い。では、インターネットの時代には、どうなのだろうか? ネットでちょうどよく見つかったのが自分の本であったり、文章であったりと、次第に売れるようになるだろうか? こういう書き方をしたら、たぶんだめなのだろうなと思う。売れるか売れないかをえんえんと論じているだけでは、読む人は面白くもないだろうし、書き手は読者の人気取りを気にし過ぎである。実は、私も小説を書いて登録をするというサイトは知っているのだが、まだそこに登録されるような内容の作品を仕上げてみてもいないのである。他の人の作品というのは、すごいなと思わされるものも多いのであるが、しかし、私が読んでみてすごいと思うものが、売れる作品というわけではないようでもある。私はいまだに求められてもいないし、認められてもいない様子である。こんなことを書いていたら、ただの分からず屋のぐちだけになっていってしまう。友人も言っていたことではあるが、自分の得意技というものも、これまでに築き上げて来たものも、そういう分野がないことを悩むひとは多いと思う。では、小説家が売れる要素というのは、何であろうか? ひとつには、好きだから、という単純な理由である。食べるものや飲むもの、空気といったものは無くては生きてはいけないようなものではあるが、小説や漫画は無くても命を落とすほどではない。だとしても、人気作家ともなれば、サイン会には長いひとびとの列ができていくらしい。そういう独特の世界である。人気商売なのである。人気が売れ行きを左右している職業である。分析をいくらしてみても、同じ結果を得ることにはならない。ある人が成功したからといってそのあとをそのまま追って成功しようというのは、多くの人がやっているようでもあるが、その手はダメなようである。当たり前であるが、条件をいくら近づけても、まったく同じにはならないからである。面白くない話であるかもしれない。もしも、秘策があるなら、教えて欲しい。このようなまじめな路線では、ダメだろうけれど、もっと売れる話というのが、私はインターネットの自由討論の場に入室というものをずいぶん昔にしてみたのだが、いきなり「きわもの」のような話になったのでびっくりした。そのインターネットの会話には、だれでも参加できたのだが、そこから学んだのは、直感的に面白がらせるのは、「ふつう」の話ではだめであるという点だ。やはり、売れっ子作家の作品の強みには、人間の欲望の側面を追ってみたものがあると思う。でも、描いて表現するという点でも、人生でも、同様だけれど軌道修正は難しい。この人の作品が日本という国から無くってしまったら大変困るというくらいなら、買い手が現れるだろう。面白くなくても、反対に面白いとしても、作品の分量がかなり多くないと作家としてデビューも、そして続けるのも無理ではないか? 私はこのような執筆活動をやらなければならないからやっているのだろうか? 29連勝というニュースもすごいのだが。私は、自分の選んだ道のほうを進んでいきたい。売れっ子作家であれば、このニュースをもとにまた面白い漫画作品を描くのだろうけれど。私は前面に出ていって、リスクはないのかなとも考える。このまま何事もない人生というものが、大切ではあるものの、こうしてブログを書いていくことは、自分の思いの発表であって、インターネット時代には必要なスキルだとも思える。私の失敗は、これまで追いかけずにいたこと、放っておいたままの何かが、とても大切なものだったのではないかということである。これからまた、いろいろと私も考えたり体験したりと、思いを伝える努力をしていきたい。

こんなことばかり書いていたのでは、ダメだろうなという思いが強くなるばかりである。こんな私がどこから手を差し伸べてもらえるだろうか? 期待しているような成果は、あがってきていないし、今後も期待どおりにはいかないだろう。良い思い出を作るという方面で執筆活動というものを個人的にとらえていければいいかなとも思う。ずっと昔に、私は小説家という職業の人が書いた本の文章を読んで、当時の若かった私にはとてもおもしろい職業ではないかと思えたので、自分もそうなりたかったのだと思います。多くの人も、本好きの若者にはそうした路線の夢追いの時期があると思います。私は、私よりもずっと以前から小説を書いている人もいるのだろうし、ずっとたくさんの小説作品を書いて来ているひともいるのだろうと思います。宝くじと同じように。私とは違う別のひとが、ずっとくじを引いていてそれでもダメであったのに、いきなり私が当たりを引くというのは、どういう場合でしょうか? たくさんの作品を書いて、そして、少数のファンを得て、そして、それを継続していくという商業活動では、どうでしょうか? 分からない。仕組みが、いまひとつ説明できない。人気商売というのは、いわば宝くじが当たって、良かったという気持ちのようなものなのだろうか? 私の場合は、もう27年くらいは昔から小説の方面で読んだり書いたりもしている。新聞の投稿小説に採用されたというのが、私の場合は、「100万円当選した」というところだろうか? もうずいぶん過去の話になってしまっている。文章をこうして書くのは好きだし、これからもどこかで書いていくでしょう。

もっと努力して書いていて、取材もして、あらすじも書いて、プロットも打ち、登場人物の割り当てもして、会話を考えてみたり、外国語を取り入れたり、小説の書き方の本で勉強したり、そういう人もいると思う。本屋に並んでいる本がそういう本だから。でも、そういうのとは違うジャンルで、ちょっと努力して、もうすこしちょっと努力して、それが編集者に認められて、仕事をもらって、すぐに文章を書いて、それが成功していった人というのもいるらしい。違うのだろうか? 東京で編集者として出版社に勤めて仕事をしているとしたら、どういう書き手を求めるだろうか? やはり、直接会って仕事の打ち合わせが出来るというのは、すごく求められていると思う。東京では、当たり前の世界であっても、私はなにかとても遠くの生活空間で生きている人たちの、夢の達成の応援をしているだけであるような気もする。小説家のすそ野の一人として、夢のかけらのひとつにでもあずかれればいいなという感じだろうか。影も形も見えない、夢破れて去って行った人たちの仲間であるとも考えられる。もうこのような年齢ではダメかなと言うところにまで来てしまってもいるのである。自分については、人生の逆転判決というものがとある人から出されて、ファンも仕事も収入も、あげるよと言われて、私はもらうだろうか? ファンというのは、人から与えてもらえるようなものではないだろうし。仕事は、もらったとしても自分にこなせるだろうか? 収入は、人気商売というのは安定しないものであるが。なにがどう転んでも、いますぐに小説家として成功できるというものではないことは確かである。きっと私は何かになれないままの、ピーターパン・シンドロームの患者として生きていくのだろう。たとえ、私に誰かが質問を送り、どうやったら売れる小説家になれるか聞かれたとしても、小説の内容もそうだし、質と量だし、時間がたってから認められる人もいるし、売り込み先の反応もさまざまだろうし、結局、どうやったら売れるかはひとそれぞれと答えるしかないだろう。こればかりは、お金を出したからと言っても、多額の現金があるから良い小説が書けるものでもないし、ファンにただで読んでもらえば良いことだし、どうだろうか? 私には小説家としての成功というものの解決策は見当たらないのである。東京に出て、小さな安アパートに住んで、自炊したりして生活しながら、仕事は片手間でできるという飲食店のアルバイトで、そうした生活を続けながら売り込みをしていけるのだろうか? 私は売り込みをしていくというのも、口下手なので難しいと思う。では、どうしたら良いだろうか? メールの活用だろうか? それでも、作品がまずないことには、買い手もつかない。どうどうめぐりの迷路にはまり込む様子である。そうこうしているうちに、年を取って行き、夢から遠ざかって行き、となっていくのではないか? 多少なりとも認められて、そして、それなりの生活を送るひとも多いのではないか? 私は、成功した漫画家の作風とまったくもって似ているとしか言いようのない作風の漫画があるのを読んでみたこともある。二番手として、もしくは三番手として、成功者のまねをしている人というのもいるのである。でも、そこでも漫画家は芸大のような学歴があればより有利であるだろうし、文芸なら文系の大学を卒業していたら有利だろうという話は私も分かっているつもりである。やはりそうなのかと言っても、すぐにも大学の学歴が思い通りに手に入るわけではない。若い時に努力したことが、今になって役立っているという人もいるのである。こんなことがあとあとになってから、そんなふうに役立つということは知らなかったという発言もあるだろう。人と同じ普通のサラリーマン家庭ではなかなか奇異な職業である小説家にはなれはしないし、小説家の親がいて、そして子供も小説家という人はよくあるようなのである。なんで自分は、そういう方面で恵まれた家系に生まれなかったのかということを言い出しても始まらない。小説家というのは、小説が売れなければ収入にならないし、今の時代のように小説もただでインターネットの小説を読むというのが主流になれば、今までの有名作家はどうなるのであろうか? 模索するべきことは多いと思う。